新説・日本書紀⑧ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)4月28日 土曜日
8月には「天皇、兄猾および弟猾を徴さしむ」。菟田の県の長だった2人のうち弟猾は参上したが、兄猾は来ず、神武を新たな宮に圧殺するしかけを造って待ち構えた。これを察知した神武は、逆に兄猾をそのわなに追い込み、兄猾を圧死させた。勝利の宴で「菟田の 高城に 鴫羂張る」で始まる来目歌が歌われた。「高城」という言葉から、その場所は、現在の川崎町にある田原遺跡を臨む台地ではないか。 神武は英彦山を降り、まず倭奴国の鷹羽(田川)を勢力下に収めたことが分かる。 帝王山に戻った神武は、西の馬見神社(嘉麻市足白)に入り、天神降臨の際に従った馬見物部の子孫、駒主命から足白の馬を献上された。神武は彼を案内役とした。11月には「皇師大きに挙りて、磯城彦を攻めむとす」とあり、いよいよ倭奴国の主力軍との決戦を迎える。 神武は八咫烏を派遣して、兄磯城を召すが彼は承知せず、弟磯城は帰順する。兄磯城との決戦となり、神武軍は烏尾峠を越え、鹿毛馬(飯塚市)を経て、当時「沼田」と呼ばれた遠賀湾の湿地帯「鯰田」(同市鯰田)を迂回し南下。勝負坂(同市の旌忠公園内)で兄磯城軍と交戦し撃破。勢いに乗じて「熊野の神邑(同市熊野神社)」に進撃し、兄磯城らを討った。 神武は「天の磐盾(立岩神社)に登り」、天祖に東征成就の祈願をしたと伝わる。境内には現在、天神降臨のモニュメントと考えられる「天の磐船」の船体が二つに折れた形で残っている。神武が制圧後に破壊した跡ではないか。1964年に発掘された遺跡からは前漢式鏡・鉄戈・鉄剣・絹などが出土している。 12月には「皇師遂に長髄彦を撃つ」とある。神武は再び遠賀湾の浅瀬を徒歩で渡り、飯塚市片島に上陸。同市幸袋の撃皷神社で軍を整え、鳥見野(直方市頓野)に進み、倭奴国最後の王、長髄彦の軍を討ち、滅亡へと追い込んだ。 日本書紀や現地伝承に現れる地名と、筑豊地域の地名や位置関係が、あまりに符号することに改めて驚かされる。神武即位の約2年前、筑豊地域はまぎれもなく東征の主戦場だったと考えるのが自然ではないか。
(記紀万葉研究家)
次回は5月12日に掲載予定です
立岩神社に残る「天の磐船」=飯塚市立岩